結局、男にとって三増合戦って何なの?

2018年6月28日相模の歴史

それは紛れもない戦国ロマンといって過言ではないのでしょうね。

長野の「川中島」や愛知の「長篠」などに並んで、これだけの古戦場があることは歴史的価値から見れば、神奈川県民にとって幸せなことではないでしょうか。

今回は、この三増合戦についてボクなりにご紹介してみたいと思います。

神奈川県愛甲郡愛川町三増合戦(三増峠の戦い)とは

三増合戦古戦場跡
郷土歴史家の方々を含めて、諸説入り乱れるところではあるのでしょうが、このページはガイド程度に参考になされてくださいw

合戦の時代背景には、永禄後期(1560年代後半)から、元亀2年(1571)の「越相同盟(上杉・北条)」から始まるようです。

このあいだ、後に上杉景虎と名乗る北条氏康の息子が、上杉謙信の養子にもなっています。

同時期に武田信玄は、織田信長に接近、姻戚関係を結んで対抗する。

こういった一連の動きの要因は、桶狭間で今川義元が戦死してから今川家の衰退をにらみ、双方ともに駿河(静岡)の領国化をもくろんだ動きと考えられ、駿東部で小競り合いを起こしたりと陣取り合戦のためだったと考えられます。

永禄12年10月相模に信玄現る

永禄12年10月に武田軍の小田原城攻めがはじまるわけですが、おそらく信玄公としては城を落とすことなど考えてはおらず、城下及び支城の戦力などに大打撃をくわえて小田原の復興期間体力の弱った北条勢をよそに、駿河侵攻をと考えていたのだとボクは思います。

10月3日から4日にかけて城下を焼き払い、あっけなく撤退していることからも想像されるところです。

武蔵から北条氏照、上野から北条氏邦が武田勢撤退を知り、三増峠付近で待ち伏せ。

信玄道

これも小田原城援軍に間に合わず、相模川を渡る辺りでの作戦の変更と思われ、待ち伏せというよりも待機という形になったのか。

おくれて氏康・氏政親子が小田原を出て追撃を始める。

武田勢は平塚をとおり、厚木、愛川町中津地区(信玄道と呼ばれる旧街道が実在する)を経て三増峠に達する。

build

永禄12年10月6日三増峠で両軍激突

三増合戦布陣想像図1

このぺージの布陣図は、あくまでボクなりの三増合戦布陣想像図という個人的な推論なのでご承知おきください。

地図上部(北側)に右から三増峠、中峠、志田峠と連なり、その裾野で合戦は展開されたわけである。

武田勢がこの付近に達した時、多くの北条方の旗印が経っていたことが想像さるわけで武田勢としては驚いたかとも思うが、しかし本当にそうなのだろうか?

三増合戦陣立図

江戸期に入って、作られている陣立図はこういったものが多いが…。

現地を訪れてみるとなだらかな丘陵地であり、よくこの合戦について「山岳戦」とするかたも多いところだが、じっさいはそうでもない。

10,000を超す軍勢が展開するだけのキャパシティーのある土地柄で、建築材も燃料も樹木で賄っていた当時であれば、現在よりも林や森はかなり少なく、見通しも良かった可能性が高い。

時代は下るが江戸末期の画家、長谷川雪提による「三増村」という徳川家康に関する地誌の挿絵をご覧いただきたい。

長谷川雪提による「三増村」

デフォルメされていることは多分に想像できることだが、当時は高い樹木がそれほどないことが見て取れるはずだ。

つまり、一帯はそれほど山深い地勢ではなく、平地から山地に至る丘陵地を主戦場とした戦いだったということなのだ。

つまり、信玄公としては合戦を展開するという事は十分に想定内だったと想像する。

むしろ、想定外だったのは小田原援軍の北条氏照、北条氏邦らだったのではないか。

何しろあっけなく小田原から武田軍が退き、帰還。

北条方としては、待ち伏せして一撃をくわえたくとも小田原からの本隊は2,3日あとの到着。

志田峠を望む

長期戦に持ち込むにも、信玄公相手には戦力差にかなり困難が予想されたろうと思います。

おそらくは相模川近くに待機しつつ、武田軍を確認してから背後に回ったとみるべきかと考えています。

むしろ三増峠で反転し、待ち構えていたのは武田方かと想像されるわけです。

この辺りの布陣と戦略は、徳川軍との「三方ヶ原の戦い(みかたがはらのたたかい)」にも通じるものかと思います。

話をもどして、戦力不足のまま北条方が追っていったものの、逆に待ち構えられた格好になり、対峙せざるしかなったかと。

こういったわずかなにらみ合いの中、口火を切った形で信玄の検使役として馬場信房隊に従軍していた真田幸隆の三男、武藤喜兵衛(真田昌幸)が一番槍として北条氏照軍に攻撃。

・・・馬場美濃備(そなえ)の御検使真田喜兵衛 馬場美濃備の一番槍を仕る(つかまつる)・・・

「甲陽軍鑑」

北条網成隊の鉄砲で武田軍左翼の侍大将・浅利信種を打ち取るなど、合戦の序盤は善戦していた北条勢だが、武田勢が工藤昌豊率いる小荷駄隊を離脱させると、小荷駄隊警護と思われる山県昌景、小山田備中守らの宿老有力部隊5,000が志田沢沿いにとって返し、諏訪四郎勝頼らと対峙していた北条氏邦隊を奇襲。

三増合戦布陣想像図2

北条方は混乱のうちに大打撃を受け、多くは散り散りに田代城方面へ敗退。

この合戦で、もっとも北条勢に多くの戦死者を出したのはこの志田沢付近であるようです。

この奇襲で活躍したのが、山県昌景、小山田備中守らに加わっていた真田信綱・昌輝兄弟であったようで、三男の昌幸の一番槍とともに真田家の三兄弟にとっては、かなりの武功を挙げることのできた重要な合戦であったと思われるわけです。

山形三郎兵衛、小山田備中守・・・真田源太左衛門兄弟・・・遊軍の備えとして二路根村より志田沢へ廻り・・・

「関八州古戦録」

いっぽう、頼みの氏康公率いる本隊は、現在の厚木市金田地区とも妻田地区ともいわれるが、およそ15㎞手前で敗戦の連絡を受け、小田原に引き返したとされ、いずれにしても、結果から見れば武田方勝利となり、信玄公とブレーンの老獪さだけを残したわけです。

浅利明神から相模原台地を望む

武田軍は勝鬨を挙げると、志田山を経て、韮尾根→石ヶ沢→山王の瀬→長竹→青山→三ヶ木→沼本→勝瀬→名倉を通り甲斐へ帰還する。

途中の反畑(現相模原市緑区寸沢嵐)で首実検もおこなっている。

武田軍によって仕掛けられたとも思える三増峠の合戦は、この2年後に北条家が上杉家と手を切り、武田家と再同盟する遠因ともなったとも考えられはしまいか。

以上がボクなりの三増合戦の推論であります^^

三増合戦、あるいは三増峠の戦いと呼ばれるこの歴史については、比較的文献が残っているので、全容は明らかなほうだが、推理しながら楽しむのも歴史ロマンといったところですよね。

三増合戦の碑 アクセス

【住所】神奈川県愛甲郡愛川町三増1182-3

【自動車】圏央道相模原インターチェンジから、県道65 中野・厚木線約30分 三増交差点左折

【バス】小田急本厚木駅東口 半原行 中荻原・三増経由 (厚木バスセンター発) 中原下車

または、上三増行 三増下車 三増交差点左折のち徒歩17分