「八菅神社」 旧相州八菅山光勝寺

2018年6月28日名所旧跡, 相模の歴史

以前にもご紹介した神奈川県の愛川町にある「八菅神社」について、訪ねてみようと思っているかたもおられるかと。

この界隈は、数回ご紹介してきましたが、今回も簡単なガイドとして投稿を残しておきたいと思います。

現在の八菅神社としてみると、今ではわかりやすい「山の上の神社」ですが、歴史的な「旧光勝寺」としてとらえるとかなり広大なものであったようで、遺構など広範囲に散らばっています。

遺構の位置関係などは、アイコンマップを制作してみましたので参考になされてください^^

八菅神社の歴史的みどころ

八菅神社

以前投稿した、 八菅神社と八菅山いこいの森を歩くでも簡単に紹介してはいますが、補足も兼ねて遺構などの詳しい位置を記して置きます。

なにせ、一山丸ごと?かと思われるほどに散らばっていて、現地にガイドもありません…orz

ご興味を持たれた方も何回も足を運ばなければならない、あるいは結局どこにあるか分からなかったという事になりかねないので、少しは参考になるかと思いますw

明治の神仏分離政策以前、八菅山は「光勝寺」として、相模国分寺の僧侶の山岳修験の拠点であり、最盛期は、50余の院・坊を擁する大規模な「お山」として知られていたわけです。

この八菅山で開祖「役行者(役の小角)」が、山岳修行を行い、薬師・地蔵・不動の像を彫り、その像を投げたところ、薬師は日向薬師に、地蔵は蓑毛の大日堂、不動が大山寺に落ちたといった話が残っています。

以来、八菅山光勝寺は「大山修験」、「日向修験」、と並び、修験道のメッカとなっていたそうです。

修験僧の山伏は当時、武装集団の側面もあり、この八菅山七社権現や日向薬師(伊勢原)、心源院(八王子)などが室町後期、後北条家の軍の一部として、諜報活動・戦闘部隊として参戦していたというのですから、一つの砦としても機能していたのかもしれませんね。

八菅神社

古の昔、相州八菅山光勝寺と呼ばれ、壮大な伽藍をもっていたと伝えられるこの地も明治の神仏分離政策で神社のみとなり、ひっそりとした存在になってしまっている。

大宝3年(西暦703年)修験道の開祖役の小角(役の行者)が日本武尊ほか6神を祀り修法を行った。

そのとき八丈八手の玉幡が山中に降臨し神座の菅の菰から八本の根が生え出たといい、そこで山の名を八菅山とよぶようになった。これが八菅神社のはじまりであると伝えられる。

おみ坂

八菅神社おみ坂

急な石積階段が、本殿まで一直線に上っている。

梵鐘

梵鐘

元和4年(1618)徳川二代将軍秀忠の武運長久を祈願して光勝寺に献じられたもの。

地元における梵鐘のうち最古の故もあって、太平洋戦争のときにとも共出をまぬかれ、現在北相に残った数少ない貴重な梵鐘となっている。

鼻池

鼻池

おみ坂の石段を上ってすぐ左手に小道があり、これを進むと小祠がありちょっと窪みになっている。

「鼻池」ではあるのだが、現在水は枯れている。

右眼池

右眼池

おみ坂の左脇に「車道・女坂」の案内がある。

この舗装された道を進むと途中左手に右眼池。

左眼池

左眼池

おみ坂を上っていくと、車道・女坂が石段と交差する。

この道は現在八菅山全体を公園として整備された展望台へと続く道で、案内には、「左眼池」とある。

右手に進むと小祠のある左眼池が。

経塚群

八菅山 経塚群

覆殿右手に八菅山経塚群の案内があり、八菅山の経塚群は、平安時代の末期から鎌倉時代にかけてのものと伝わる。

白山堂跡

白山堂跡

「八菅修験は白山権現ではじまり大山の白山不動で終える」とされます。

神社裏手に展望台へと向かう道があり、フィールドアスレチックの遊具が並ぶ広場を越えてしばらく進むと道脇に「白山堂跡」の案内があります。

梵天塚

梵天塚

「展望台」を目指して進むと道脇に「梵天塚」が。

築造のころは不明とのこと。

教城坊塚

教城坊塚

展望台手前の「教城坊塚」。

案内によれば、「八菅山修験組織のひとつである教城坊(後に教城院となる)に属する塚であった。」とあります。

展望台

八菅山展望台

展望台から中津地区を望む
展望台から中津地区を望む

教城坊塚隣に中津・相模原方面を見渡せる展望台があります。

旧光勝寺の総門跡

旧光勝寺の総門跡

旧光勝寺の総門跡説明

うっかりすると見過ごしがちな位置にあります。
トイレのある駐車場の向かい側にも小さな坂道があり、ここに総門跡の遺構が残っています。

海老名季貞墓

海老名季貞の墓

海老名季貞墓説明

鳥居へと進む道の途中に細路が分岐、そこを少しくだると海老名季貞墓がある。鳥居下の畑の中、といったほうがわかりやすいかもしれない。

「海老名源三季貞(または源八季定)は鎌倉初期の武将で、現在の海老名市河原口に在した豪族海老名党の頭領であった。源氏旗揚げの(1180年)とき、季貞は平家の被官人として大庭影親の軍に加わり、石橋山の合戦で頼朝を攻めた。のち、頼朝再起のときは、源氏の家人となり忠誠をつくした。

一族の八管山に対する信仰は厚く、季貞は頼朝の命により、代官として社殿、末社の再建と大日堂の建立を行い、法灯を保護した」 愛川町教育委員会。

不明な点も多い光勝寺跡や口池など

「新編相模風土記稿」下之巻二、八菅山の項に日本武尊(ヤマトタケルノミコト)が、東征の時にこの山を望み、形が龍に似ていたので、蛇形山と名付けたと書かれています。

相伝フ日本武尊東征ノ時。此山ヲ望ミ形チ龍二似タリトテ。蛇形山ト名ケシトナリ。今山中二左眼池右眼池鼻池口池舌畑等ノ唱ヘアルハ。当時ノ稱呼残セルナリト云。

今も神社には、左眼池、右眼池、鼻池が存在するわけですが、口池、舌畑などと言われる場所もあるそうで、旧光勝寺跡地とともに正確な位置は把握できていません…orz

口池に関しては鳥居近くの案内図を見る限り、駐車場近くに「口池跡」と明記されていますが、実際の痕跡はないようです。

これらの遺構は、すでに存在しないのかなと推察してはおりますが、ご存じの方ぜひコメントをお願いしますw

江戸時代の画家「長谷川雪堤」による当時の八菅山(1836ごろ)

八菅神社と八菅山いこいの森へのアクセス

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駐車場利用時間は、午前9時~午後5時
11月1日〜1月31日の間は午後4時30分で閉鎖。
青空博物館駐車場は、12月29日〜1月3日の間は閉鎖。
時間に関わらず、荒天等により閉鎖する場合ありとなっています。

所在地住所 〒243-0305 神奈川県愛甲郡愛川町八菅山139
交 通  小田急線本厚木駅から上三増又は愛川町役場行きバスで「一本松」下車徒歩25分
問合先  愛川町環境経済部商工課 電話046-285-2111(代)FAX046-286-5021