八菅神社と八菅山いこいの森を歩く3

2018年6月28日相模の歴史

今回は、八菅神社にまつわる話としての三回目、日本武尊(倭建命・ヤマトタケルノミコト)について少し気になっていることを記しておきたいと思います。

日本武尊(ヤマトタケルノミコト 景行天皇2年~43年)は、諱は小碓尊(命)(おうすのみこと)。

第12代景行天皇の皇子、第14代仲哀天皇の父として記紀に登場する皇子とされています。

坂本(現在の中津坂本地区)で、蛇形山(八菅山)と日本武尊(ヤマトタケルノミコト)が命名した点に疑問

郷土史や八菅神社境内の掲示には、蛇形山(八菅山)と日本武尊について次のようにあります。

神社モノクローム八菅山は古名を蛇形山といった。むかし日本武尊が坂本(現在の中津坂本地区)でこの山をながめられ、山容が竜に似ているところから名付けられた。

そしてこの山中には蛇体の各部分にあたる池の名が今も残っている。

大宝3年修験道の開祖、役の小角(役の行者)が日本武尊の神跡をたづねこの山に国常立尊ほか六神を祀り修法を行った。

そのとき八丈八手の玉幡(はた)が山中に降臨し、神座の菅の菰から八本の根が生え出たという。

そこで山の名を八菅山と呼ぶようになった。

これが八菅神社のはじまりであると伝えられている。

この八菅山を前にした丹沢山塊一帯は山岳信仰の霊地として修験者(山伏)たちの修行道場として盛んであった。

この連なる山々には幣山(へいやま)、法華峯(ほっけみね)、経ヶ岳(きょうがたけ)、華厳山(けごんやま)、法論堂(おろんど)、など今も残る名は巡峯(じゅんほう)の要所であったことを教えてくれる。

ヤマトタケルノミコト東征と蛇形山(八菅山)の逸話は真実なのか

八菅山 「八菅山・標高二二五米」境内掲示境内掲示より

日本武尊についての逸話は日本中、弘法大師などとともに多く点在しているが、ボクが疑問に思ったのは「むかし日本武尊が坂本(現在の中津坂本地区)でこの山をながめられ、・・」の一行にある。

日本武尊は東征の際に坂本に立ち寄った、あるいは通ったという事だが、役の小角(役の行者)が日本武尊の神跡をたづねてこの地を訪れたのである点は納得するところではあるが、今一つ、日本武尊が坂本を訪れている点に違和感をおぼえているわけである。

なぜなら、ご存じの方であれば愛甲郡愛川町中津坂本地区は何の変哲もないのどかな農村といった場所で、地形的にも日本武尊がまったくイメージできない土地だからである。

そもそも、日本武尊の東征とは、「古事記」「日本書紀」に記されている南九州の熊曾建(クマソタケル)や出雲の出雲建(イズモタケル)を討つ西征をした後、東国の蝦夷(エミシ)征服の東征を行ったとされるもの。

しかしながら、各地へ征討に出る雄略天皇などと似た事績であり、4世紀から7世紀ごろの数人の大和(ヤマト)の英雄を統合した架空の人物という見解もあるほどはっきりはしない。

四世紀頃の、ある程度事実を反映した物語ではあるとはいえ、「古事記」が和銅五年(712年)、「日本書紀」が養老四年(720年)に編纂され、ヤマトタケル伝承はそれより四百年もさかのぼる遠い昔の伝承の類であるのだから仕方のないことだ。

ちなみにヤマトタケルノミコトは古事記では「倭建命」であり、日本書紀では「日本武尊」と記されている同一人物なので、念のためw

ヤマトタケルノミコト東征経路

話を戻すと中津坂本地区は、この東征のルート上から微妙にずれているような気がしてならないでいる。

古事記、日本書紀によれば、おおよそそのルートは次のように記されている。

古事記

倭(やまと)―伊勢―尾張―駿河―相模走水(はしりみず)―上総(かみつふさ)―常陸新冶(にいばり)―筑波―相模足柄―甲斐―科野(しなの)―尾張―近江伊吹山―伊勢能煩野(のぼの)

日本書紀

倭(やまと)―伊勢―駿河―相模走水(はしりみず)―上総(かみつふさ)―陸奥(みちのく)―日高見(ひたかみ)―常陸新冶(にいばり)―筑波―甲斐―武蔵―上野(かみつけの)―碓日坂(うすいさか)―信濃―美濃―尾張―近江伊吹山―伊勢能煩野(のぼの)

これを見た限り、古事記では行きの「―駿河―相模走水(はしりみず)―上総(かみつふさ)―」、帰路の「―筑波―相模足柄―甲斐―」。

日本書紀では、「―駿河―相模走水(はしりみず)―上総(かみつふさ)―」、帰路の「―筑波―甲斐―武蔵―上野(かみつけの)―碓日坂(うすいさか)―」と記されている。

このなかで、

さねさし 相武(さがむ)の小野に 燃ゆる火の 火中(ほなか)に立ちて 問ひし君はも

と読まれた歌があるが、当時の「相武(さがむ)の小野」にあたると考えられる土地は、現在の神奈川県厚木市小野、小野 (オノ) 神社と東京都多摩市一ノ宮、小野 (オノ) 神社で、中津坂本地区に近いのは厚木市小野だが、ルートから考えると、東京都多摩市一ノ宮の小野ではなかったか。

いずれにしても現在の湘南、甲州街道を経路としたほうが自然で、事実、相模を横断した形跡はあるものの、相模川流域を縦断したとは思えない記述でしかない。

たしかに相模川流域には弥生式の貝塚や住居跡などが点在してはいるが、それほど重要なものもないし、しかもその支流である中津川沿いのわざわざ中津坂本地区を訪れたとは思えないがどうなのだろうか。

たしかに、愛川町指定考古資料として「半縄の石棒」なる 縄文(じょうもん)時代中期の棒状の磨製ませい石器(せっき)などはあるのだが。

これとて、ヤマト政権樹立以前の一昔前といえる、遺物のような気がボクは感じている。

足柄の坂本 もう一つの相模の坂本

その中でも注目したいのが相模足柄で、ヤマトタケルノミコトは足柄山のなんと、坂本というところに到着したという項があるのだ。

八菅神社しばしば、歴史においては地名による混同や間違いが起きやすいものだが、今回のケースにおいても個人的にはこれが当てはまるような気がしてならない。

ここは、御殿場から足柄峠を越えた坂本(現在の関本)にあたるのだが、、。

足柄山の白い鹿

原文:そこより入り幸して、悉(コトゴト)に荒ぶる蝦夷(エミシ)等を言向け、また山河の荒ぶる神等を平和して、還り上り幸しし時、足柄(アシガラ)の坂本(サカモト)に到りて御粮(ミカレヒ)食す処に、その坂の神白き鹿に化りて来立ちき。

ここに即ちその咋(ク)ひ遺(ノコ)したまひし蒜(ヒル)の片端(カタハシ)以ちて待ち打ちたまへば、その目に中りてすなはち打ち殺さえき。かれ、その坂に登り立ちて、三たび歎かして「あづまはや」と詔りたまひき。

かれ、その国を号けて阿豆麻(アヅマ)と謂ふ。

現代文訳:ヤマトタケルはそこから奥へと進みました。

そこには荒々しい蝦夷がおりましたが、これらをことごとく平定し、山河の神々を平定しました。

そして大和へと帰ろうと足柄峠に着いたときに乾飯(カレイイ・保存用に乾かした飯)を食べていると、その足柄峠の坂の神が白い鹿に化けて、やってきました。

ヤマトタケルはその食いかけの蒜(ヒル・韮の仲間)の端切れを投げつけると、目に当たって鹿に化けた神は死んでしまった。

ヤマトタケルはその坂に登り、三度ため息をついて

「あぁ、妻よ」

と言いました。

それで、この辺りを阿豆麻(アヅマ)と呼ぶようになりました。

この話が真実とするとむしろ、足柄の地に蛇形山の舞台があったように思えるわけです。

逸話や記録として、この「足柄山の白い鹿」が、おぼろげながらも残っている辺りにおいてはこちらを重視せざるを得ない気が個人的にはするのですが。

蛇形山(八菅山)の逸話まとめ

ここが実際のヤマトタケルノミコト東征経路の坂本であるとしたならば、「八菅山は古名を蛇形山といった。むかし日本武尊が坂本(現在の中津坂本地区)でこの山をながめられ、山容が竜に似ているところから名付けられた。」とは、蛇形山(八菅山)の逸話をふくめた八菅山七社権現の開祖、役の小角(役の行者)以降の時代につくられた話ではなかったのだろうか。

八菅山 「八菅山七社権現」境内掲示創作とは言わないまでも、権威づけに足柄の逸話を使ったようにボクは感じています。

歴史の話や郷土史などしばしば、こういった地名の重複などでの混同や錯覚など多いことも歴史好きの方ならご承知かと思います。

しかしながら、どうでしょうか?

ボクは、まったく郷土史について素人で、期待するのも霧の中かもしれませんが、同じテーマに迫った方のコメントに期待している限りで、ぜひともご教授願いたいところですw

県内のニッチな歴史ロマン。ヤマトタケルノミコトや役の小角などをはじめ、名だたる歴史上のビッグネーム。

個人的にボクは八菅山に魅力を感じてやまないわけですw

八菅神社と八菅山いこいの森へのアクセス

駐車場利用時間は、午前9時~午後5時
11月1日〜1月31日の間は午後4時30分で閉鎖。
青空博物館駐車場は、12月29日〜1月3日の間は閉鎖。
時間に関わらず、荒天等により閉鎖する場合ありとなっています。

所在地住所 〒243-0305 神奈川県愛甲郡愛川町八菅山139
交 通  小田急線本厚木駅から上三増又は愛川町役場行きバスで「一本松」下車徒歩25分
問合先  愛川町環境経済部商工課 電話046-285-2111(代)FAX046-286-5021