海老名季貞という人物

2018年6月28日相模の歴史

八菅神社下の海老名季貞の墓とされる仏塔(愛川町)
以前に投稿した「八菅神社 旧相州八菅山光勝寺」という愛甲郡の八菅神社の案内記事をポストしましたが、この中に海老名季貞の墓という遺構をご紹介しているかと思います。

さて、この海老名源八季貞(えびなげんぱちすえさだ)という、八菅山光勝寺にゆかりの人物について興味があったので少し調べてみました。

平安時代から鎌倉時代へ歴史の転換期に海老名源八季貞は生きた

海老名氏は一般に村上源氏とされており、源有兼(みなもとのありかね)が小野盛兼の子季兼を養子に迎え、季兼が相模国海老名郷に土着して郷名を名字としたことに始まるそうです。

これも一般的にということになりますが、「海老名」という地名はエビのような地形からなどといわれており、諸説さまざまありますが、海老名氏を由来とするものではないということです。

領主の名から地名が付くといったパターンとは真逆ということですね。

ebinashi-kamonもともとは、武蔵七党横山党の分流で、「見聞諸家紋」という昔の家紋カタログのようなものには「海老名与七政貞」の名を挙げ、その家紋として「庵に二つ木瓜」が収録されています。

この見聞諸家紋は別名を「東山殿御紋帳」とも言い、室町幕府8代将軍足利義政の頃、将軍家・守護大名・国人層に至るまで諸家の家紋260ほど集めたものです。

応仁末年(1467年)から文明2年(1470年)までの間に成立したもののようなので、季貞が生きたころより時代が下るので、この家紋を使っていたかは定かではありませんが、海老名氏に関する記録はしっかりしているものと思われます。

相模の名門「海老名氏」は室町期に没落するも荻野・小野・本間・国府などの庶家として時代を生き抜く

海老名源八季貞の旧館跡から新築遷座された有鹿天神社
鎌倉期成立前の平安末期、1156(保元元)年の保元の乱では源義朝(頼朝の父であり平清盛のライバル)に従い各地を転戦。

平治の乱(1159年)に義朝が平家に滅ぼされて後は平家に属し、頼朝の挙兵時にも一時敵対したものの後に許されて頼朝軍傘下として従軍している。

この時点で、鎌倉幕府の御家人となっていたわけですね。

室町時代末期に海老名氏は没落したとされていますが、厚木市の荻野などの地名にも見られる、神奈川県に多い、荻野・小野・本間・国府といった姓の末裔が現代まで繁栄しています。

没落としましたが、正確には1438年、永享の乱で関東管領・足利持氏が宝樹寺に本陣を置き戦いとなり、敗れた海老名氏はこの時に滅亡したと伝えられています。

海老名氏にまつわる遺構とアクセス

残念ながら、海老名氏にまつわる遺構は、八菅神社前の季貞の墓のほかは、海老名市の「河原口」付近に有鹿神社内の海老名氏霊廟などごくわずか点在する程度で、館跡記念碑が住宅街の一角にひっそりとたたずむものの、館跡すらその位置は推測の域をぬぐえない状況です。

開発前に発掘調査がなかったのか惜しい気もしますが、これも歴史ロマンといったところでしょうね^^

有鹿神社

ちなみに河原口付近の有鹿神社の南に字御屋敷の地名があり、海老名氏の館はこのあたりにあったと現在は考えられています。

海老名氏館跡記念碑

交通
JR相模線・小田急線「海老名」下車 徒歩25分

今回は、愛川町の「八菅神社」 旧相州八菅山光勝寺跡の遺構のひとつ、海老名季貞墓に眠るこの「海老名季貞(えびなすえさだ)」という人物についてザックリとではありますが、ご紹介してみました。

掘り下げてみると、源頼朝や平清盛など平安末期に登場するビッグネームと同じ時代を生きた人物でした。

もちろん、東国だけを取り上げれば、鎌倉期成立時には重要な御家人の一人と知り、驚いた次第であります^^

相模の歴史にご興味のある方なら、八菅神社下のお墓のお参りを含めて一度訪ねてみてはいかがでしょうか^^